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    「空き缶拾いを手伝ってくれ」と言われた。

    流転する日常。相も変わらず思いも寄らぬ横からの突風や、浮世の噂話にゃモゾつくわけさ。
    そんなこと気にせずに部屋で、文学や音楽や映画に膝抱えて浸る20代の日々にゃ戻れんぜ。つーワケで
    代表作は夫婦善哉の著者、織田作之助せんせーの書籍を読む。
    知らぬ知らぬに身に染みたしがらみとか、贅とか貧とか言葉で流して。【アド・バルーン】は面白かった。

    まえに、冬。笹塚駅前のロタリーで友人の乞食(推定70オーヴァー)から
    「空き缶拾いを手伝ってくれ」と言われた。手伝った。
    これで2000yenになるっぺと言い去る背中を見送った。翌日、500yen呉れた。
    あの優しいオッサン、元気してるかな、なんて、
    ちょっとした温もり零れる時もある夫婦生活の端で思い浮かべるのはハシタナイかもしれないが。
    思い浮かべたりしている。
    レベル7の街の拾い屋なんて、地獄の沙汰かもしれないね。爺とはいえ、
    派手にベクってないことを願い、心の中で掌を合わす。
    前述のアド・バルーンにも作中に「拾い屋のオヤジ」が出てくるのだが、その人がなかなかキーマンであり、
    後半、物語を彩る上で重要な人物になっている。それで、たぶん、
    数年ぶりに笹塚駅前のオッサンのことを私も想い出したのね。




    それはそうと、
    "クラシック・ブンガク"と呼べばしゃらくさいかもしれないけど、
    "オールド・ジャパニーズ・ブンガク"のことをさ。昭和の頃の文学のこと

    苦手意識を持っている方も多いかと思うが、
    「そんなことないよ。」と、伝えたい。


    太宰治は「太宰治 畜犬談 ―伊馬鵜平君に与える―」という随筆で、
    ひたすら「犬が嫌い」ということを熱筆しているのだが、
    その言い回しや思考回路がとても笑えて妙に痛快。

    (飼い主でさえ、噛みつかれぬとは保証できがたい猛獣を、(飼い主だから、絶対に喰いつかれぬということは愚かな気のいい迷信にすぎない。あの恐ろしい牙のある以上、かならず噛む。けっして噛まないということは、科学的に証明できるはずはないのである)その猛獣を、放し飼いにして、往来をうろうろ徘徊させておくとは、どんなものであろうか。昨年の晩秋、私の友人が、ついにこれの被害を受けた。いたましい犠牲者である。)



    太宰治と聞けばどうしても文学的"陰"を売りにして、私小説なんつって、
    ロクでもない主人公のロクでもない日々を延々と、
    自虐的に(或いは自慢げに)、垂れ流しているかのような一般的イメージがあると思うが、
    それが全てではなく、くくく、と笑える物語も少なくはない。

    夏休みに、谷崎潤一郎の本を買ってくれたキュートなあの娘は達者に暮らしているのだろうか?
    彼女の短い夏休みの思い出の端っこに、私も居るはずと思えば明日も、明るく生きられる気がする、

    そいえば、文章中で自分のことを「私」と称したのは生まれて初めてかもしんない。
    阿呆のような量の灰が降り降り、顔、ザラついて口の中まで。グッドラック私。
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    日々のこと | コメント(0) | トラックバック(0) | 2012/09/27 14:33
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